SE工哀歌 -エーシィー-
こころは誰にも見えないけれど、
心得違いは…、やっぱり見えない…。
思いは誰にもみえないけれど、
思いすごし…、やっぱり見えない…。
えーしぃー。。。
担当/ 思い上がりは、ちょっと見える。
心変わりはイタイほど感じる(--;) ARIO
SE工哀歌 -宇宙のファンタヂー-
先日、国連の宇宙空間平和利用委員会で、宇宙の商業利用について討議が行われました。
現在、宇宙空間の商業利用が一番進んでいる国はどこかという事について、アメリカ合衆国の代表が、自らの先進性を主張しました。
「わが合衆国は、民間のデベロッパーでさえ、月面の土地売買を既に行っている」
と。
これに対して、日本の代表も負けずに、主張しました。
「今まで表面化されていなかったが、わが国は国技の競技者が、だいぶ以前から星(ホシ)の売り買いをしていました」
担当/残業中にこんな事書かずに、早ぅ帰ろARIO
SE工哀歌 -理不尽な死の主観的評価について-
先日、近しい方が亡くなりました。
ある日、突然の事でした。
ご高齢(前期高齢者)でしたが、特に持病(自覚症状として)というものもなく、普通に生活されていました。
死因は、心臓発作らしいとの事です。
「らしい」というのは、独り暮らしだったので、発見が遅れ腐乱が進んでからの司法解剖であったため、特定が難しいのかもしれません。
ご冥福をお祈りします。
私はこれまで、戦争や災害で不本意に亡くなることは本人にとって「不本意な死」であると思ってました。
でも最近、「死」というものはどのような形式であれ、本人にとっては(自殺者を除き)「不本意」であると思い直したところでした。
しかし、本当に「不本意」であったか否かは本人の評価によるのではないか?
娑婆に残された遺族や関係者は、突然の死に遭遇し、「不本意」であろう。
感情の整理もつけられず、財務的、物質的処理も一度に降りかかってくる。
だが、本人としては、遺族が狂うほど泣き叫ぼうと、莫大な借財が残ろうと、その屍が野ざらしにされ、獣や蟲に喰い散らかされようと、その対応に関与することはできない。
そもそも生を受けた時点で、生物がいつかは「死」を迎えることは逃れることはできない。
彼(彼女)が、突然であろうとなかろうと、「死」に遭遇し、受け入れた時点で、それが「不本意」であるか否かは本人の主観的な評価に依る。
ただ、死者による、「死」に対する評価に意味があるか…。
担当/合掌 ARIO
SE工哀歌 -あれれっ-
セ・リーグのCS、阪〇球団まさかの連敗ですか…。
でも5試合も6試合もして敗退するより、選手は疲れずによかった、よかった。
名古屋で赤っ恥もかかず、投手も肩を消耗せず。
しかし、首脳陣はどうなのでしょう。若手投手の育成が秋山ひとりっちゅうのもねぇ…。
まっ、本番に弱いとこ、大事なことに弱いとこを私が責められるわけもなく…。
来年頑張ってください。
私は今週、プログラムを改修して再テストをして…。
こんなカチョウもいるのですよ。
担当/いるのですよARIO
SE工哀歌 -15の時-
成り行きで田崎監督の「Sh15uya(シブヤ15)」を観ました。
正直、面白かったです。
チョット感動の最終話でした
(個人的には、村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の最後を思い出してしまいましたが)。
架空の街「シブヤ」に登場するのは、一部の大人を除いて15歳の少年少女だけ。
自分の15歳ってどうだったろうと無駄に考えたりしてしまいました。
毎日、何かイヤな事があった中学校の3年生。
1日も早く終わることだけを考えていた中学生活。
それとも、劣等感の塊りのような高校1年生。
周りを見廻して、「コイツらには勝てんなぁ」と思う日々。
そんなところでしょうか。
しかし、私は「Sh15uya(シブヤ15)」の主人公「ツヨシ」のように現状に”疑問”を抱いて生きていただろうか。
現状に”疑問”を抱く事で”哲学”になると思う。
既成の思想に対する疑問は、哲学的ではあったも”哲学”ではないのだろう。
”哲学”のない成長は”自我”の醸成が不十分を招く…。
特撮モノでそんなことまで考えてしまうのは、やはり自我の醸成が不十分なオヤジだからか、安いウィスキーを飲み過ぎたせいか。
どんなに後悔しても惜しんでも15の時は取り戻せるべくもなく、週が明ければシステムテストにむけてプログラムのチェックとテストデータの作成を段取りしないといけません。
オヤジにはもう”哲学”する余地は残されていないのか…。
担当/ウィスキーが抜けるまでもう少し寝ます ARIO
