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2010年12月02日

SE工哀歌 -理不尽な死の主観的評価について-

 先日、近しい方が亡くなりました。
ある日、突然の事でした。

 ご高齢(前期高齢者)でしたが、特に持病(自覚症状として)というものもなく、普通に生活されていました。
死因は、心臓発作らしいとの事です。
 「らしい」というのは、独り暮らしだったので、発見が遅れ腐乱が進んでからの司法解剖であったため、特定が難しいのかもしれません。
 ご冥福をお祈りします。

 私はこれまで、戦争や災害で不本意に亡くなることは本人にとって「不本意な死」であると思ってました。
でも最近、「死」というものはどのような形式であれ、本人にとっては(自殺者を除き)「不本意」であると思い直したところでした。


 しかし、本当に「不本意」であったか否かは本人の評価によるのではないか?

 娑婆に残された遺族や関係者は、突然の死に遭遇し、「不本意」であろう。
 感情の整理もつけられず、財務的、物質的処理も一度に降りかかってくる。
 だが、本人としては、遺族が狂うほど泣き叫ぼうと、莫大な借財が残ろうと、その屍が野ざらしにされ、獣や蟲に喰い散らかされようと、その対応に関与することはできない。

 そもそも生を受けた時点で、生物がいつかは「死」を迎えることは逃れることはできない。
 彼(彼女)が、突然であろうとなかろうと、「死」に遭遇し、受け入れた時点で、それが「不本意」であるか否かは本人の主観的な評価に依る。
 ただ、死者による、「死」に対する評価に意味があるか…。

   担当/合掌 ARIO

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コメント (1)

私の近親の場合は、病にて「死」を受容しました。多少の思い残しはあったようですが、「死」への恐れと自らの人生の終末への不安を言葉にすることはありませんでした。「充分、生きた。」と。突然死の場合は余り苦しまない(場合が多いよう)ですが自らを振り返る時間が無いのが、もしかしたら不本意かもしれません。

ご冥福をお祈りいたします。

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